世界を脅威に陥れたハロンとの戦いが終わって1年が過ぎた。
ため息が出る程の平和な日々が過ぎ行く中、魔女(ウィッチ)である彼女がふと垣間見た未来に絶句する――それが全ての始まりだった。
☆
異世界へ旅立つ決心なんてとっくの昔についていた筈なのに、いざここへ来ると足元が竦(すく)んでしまう。
断崖絶壁から下方を覗き込んで、リーナはゴクリと息を呑んだ。
すぐ側で途切れた川の水が滝壺を叩き付け、底は水しぶきに白く霞んでいる。
「別に、怖いなら飛び込まなくてもいいのよ? 貴女がここで死んで異世界へ生まれ変わらなくても、先に行ったラルがちゃんとアイツを始末してくれるわ。彼の力を信用してみたらどう?」
背後で見守る魔女・ルーシャが仁王立ちに構え、眉間のシワを寄せた。
「ラルの力を信用してないわけじゃないよ。けど、アッシュの事を聞いたら、やっぱり私は彼の所に行きたいの」
――『アッシュが死んでしまうわ』
つい数日前に聞いたルーシャの発言が何度も頭を巡り、衝動が止まらなかった。想像した未来に泣き出してしまいそうになる気持ちを抑えて、リーナはふるふると首を振る。
ラルもアッシュも、リーナにとって大切な人だ。なのに二人はリーナに何も言わず、もう戻る事の出来ない世界へ旅立ってしまった。
「あの二人が異世界へ飛んで貴女までを行かせてしまうのは、この国にとって大きな損失よ?」
「私はもう力なんて使えないのに」
「表向きはね。けど貴女は今でもれっきとしたウィザードよ?」
「うん――」
ルーシャの言う事はちゃんとわかっている。
一年前の戦いが終わった時にリーナの魔力は消失したのだと周知されているが、実際はルーシャの魔法で内に閉じ込めているだけだ。そしてそれを知る人間はリーナとルーシャの二人だけに他ならない。
再びウィザードとして魔法を使う事に躊躇いが無い訳じゃない。けれど、ラルとアッシュを追って異世界へ行く決断をしたのは、それが事態を好転させる切り札だと確信したからだ。
リーナが胸の前で両手をぎゅっと組み合わせたのを合図に、ルーシャが右手に掴んだ黒いロッドの先で足元をドンと突く。
「貴女の行動が彼等の想いに背くんだって事も頭に入れておきなさい?」
「分かってる。それでも行きたいと思ったから、私はここに来たんだよ」
確固とした意志で主張するリーナに、ルーシャが「そうね」と苦笑した。
「だったらもう止めることはできないわ。けど、その調子だとヒルスにも言わないで来たの?」
「それは……うん」
リーナはきゅっと唇を噛んだ。その事は今でも少し後悔している。
先に異世界へ旅立った二人を追い掛ける手段は、この崖を飛び降りて今の肉体を殺す事だ。兄であるヒルスに言えばきっと全力で止められるだろうし、覚悟が鈍ると思って最後まで言い出すことが出来なかった。
「全く、貴女達は似た者同士ね。3ヶ月前、ラルたちにも同じことを尋ねて、私は同じ返事をもらったわ。突然2人が居なくなって貴女が泣いたように、ヒルスも泣くんでしょうね。そしてきっと、同じ事を私に聞くのよ」
「同じ事……?」
「まぁいいわ。行きたいと思うなら行けばいい。けど、もう一度確認させて。ここに飛び込めば貴女はもうこの世界に戻れない。私がヘマしないとも限らないけど、それでもいいの?」
「それでもいい。二人の所へ行ける可能性を、自分が生きる為だけに無視する事はできないよ。大丈夫、もしルーシャが失敗しても、何もせずにここへ残っても、あの二人に会えない事には変わらないんだから」
「貴女も強くなったわね。流石は私の見込んだウィザード様だわ」
「ルーシャには感謝してる。私はあの時最後まで戦えなかった責任を取りたいの。だから、その世界へ行かせて」
「もう……」
ルーシャが浅いため息を吐き出して、「しょうがないわね」と風に流れる髪をかき上げた。
しかしリーナが崖へと踵を返した所で、滝の音に重ねた足音がドドドっと近付いてくる。
「リーナぁぁあああ!!!」
相手が誰かはすぐに分かった。
「兄様?」と呟いて、リーナは崖の先端へ急ぐ。けれど、そのまま飛び込もうとした所で高低差に足が止まり、走ってきたヒルスに後ろ腕を引っぱられた。
「行くなよリーナ、僕を置いていかないでくれよ!」
強引に崖から剥がされ、リーナは涙をいっぱいにためたヒルスと向かい合った。
朝食時のままの平服に、いつも整ったおかっぱ髪が乱れている。よほど急いで来たのだろう。
彼を残しては行けないと、何度も思った。けれど、二人を追い掛けたいという気持ちを捨てることはできなかった。
「どうして来たの? 兄様にさよならなんて言いたくなかったよ」
「城で聞いたんだ。僕を一人にして、お前はアイツらの所に行くのかよ。だったら僕もついて行くからな?」
「ちょっと、貴方いきなり何を言い出すの?」
ヒルスの主張に、ルーシャが横から声を荒げた。
「異世界へ行く穴は一人分しか確保できてないの。二人で突っ込めば破裂して共倒れになってしまうわ」
「黙れよルーシャ。お前本気でリーナを行かせる気かよ。先に行ったアイツらだって、本当に生きてるかも怪しいんじゃないのか?」
ヒルスの勢いは止まらなかった。ルーシャに詰め寄って胸ぐらを掴み上げるが、パシリと細い手で払われてしまう。
「落ち着きなさい。いい、たとえ住む世界が違っても、あの二人がちゃんと生きてる事は私が保証する。リーナは自分の意志で行くと決めたんだから、貴方は兄として送り出してあげて」
「僕は、もうリーナに会えないのが嫌なんだよ!」
威嚇するように喚いて、ヒルスはガクリと項垂れる。
「リーナがアッシュの代わりにアイツを助けたいって言うなら、僕がリーナの代わりに行く。ルーシャ、リーナじゃなくて僕をそっちへ行かせてくれよ!」
「貴方じゃ力不足なのよ。リーナはアッシュから最強の剣を引き継ぐために行くの。最強の敵と戦う為に作られた、魔法使いにしか発動できないものよ? 魔法の使えない貴方じゃ意味がないのよ」
はっきりと否定されて、ヒルスが「畜生」と地面にうずくまる。瞼に溢れた涙がボタボタと足元の砂利を濡らした。
「僕は、リーナを戦場へ戻したくないんだ。リーナはもうウィザードじゃないんだぞ?」
「兄様……」
肩を震わせるヒルスに、リーナはふと可能性を垣間見て「そうだ」と顔を上げた。
「どうした?」と涙でぐしゃぐしゃの顔を傾けるヒルスに小さく笑顔を零す。
「ねぇ兄様。昔から、兄様の言ったことは何でも本当になったと思わない?」
「リーナ?」
「戦争で父様も母様も居なくなって泣いてた私がこうしてお城に居られるようになったのは、兄様のお陰でしょう?」
――『リーナ、僕がきっと毎日ドレスを着られるようにしてあげるから』
小さい頃、寂しさを紛らわせるように言ってくれたヒルスの言葉は、今でも耳に残っている。
「兄様が私にまた会えるって思ってくれるなら、多分そうなるんじゃないかと思うの。だから、私が兄様に最後の魔法を掛けてもいい?」
話を把握できないヒルスに両手を伸ばし、リーナは兄の広い胸にぎゅうっと抱き着いた。
驚いたルーシャが、「そういう事」と納得顔で頷く。
「リーナ?」
戸惑うヒルスの耳元まで背伸びして、リーナは囁くように呪文を唱えた。
呆然とするヒルスを離れ、リーナは再び崖へと向かう。
爪先を割れた地面の先端に合わせて、二人を振り返った。
「ねぇルーシャ、あの二人は最後まで笑顔だった?」
「えぇ。最後まで貴女のこと心配してたけどね」
「なら良かった」
「何度も言うけど、運命ってのは本来変えることができないのよ。未来を救うなんて賭けみたいなものだって言ったでしょう? 貴女達が異世界へ行くことで向こうにどれだけの影響を及ぼすかなんて分からない。覚悟しておくのよ」
「分かってるよ。だから──」
リーナはヒルスを一瞥して、滝の向こうの風景を仰いだ。
ここから跳べば、先に行った彼と共に遠い世界の未来を救うことができる。
だからその前に、もう戻ることのできない溜息が出る程の平和を目に焼き付けておこう。
青い空、緑の山、遠くの海、そして大事な人たちを――。
肩越しにもう一度二人を振り返って、リーナはいっぱいの笑顔を送った。
先に行った二人がそうであったように。
「大好きだよ、兄様。じゃあまたね、バイバイ」
「リーナぁぁぁああ!」
最後にまた引き止められるんじゃないかと思ったけれど、ヒルスはそこから動かなかった。
軽く地面を蹴ると、身体は滝壺へ引き寄せられるように落ちていく。
空が藍色に光ったのが見えて、リーナはそっと目を閉じた。
この先にあるのが未来だと信じて。
ルーシャがハロンを次元隔離して一年が経った。 この短い期間で国の復旧は驚く程に進み、今この世界は平和だと思える。 けれどそんな穏やかな日々の裏で、ルーシャがターメイヤとは別の世界の未来を危惧した。 結果、その改変へと動き出したのは、ヒルスにとって大切な友と憎らしい男だ。 誰にも言うなと口止めされている。 そうするとは聞いていたけれど、いざ別れを切り出されると自分が思っていたよりショックが大きかった。「明日、行くことにしたよ」 彼に呼ばれて部屋へ行くと、アッシュは一人で酒を飲んでいた。空にしたグラスをヒルスに掴ませ、琥珀色の酒をなみなみに注ぐ。「急なんだな」 次元の外へ追い出したハロンが、今度は別の世界の壁をこじ開けて脅威に包み込むという。 それが起きるのは十七年後。知らない世界の未来の為に、彼らはこの世での生を捨てて、その世界へ生まれ変わるというのだ。 馬鹿げた話だと思う。けれど、彼らは本気でそんな馬鹿をしようとしている。 いくら考えても納得できず、ヒルスは酒をぐいぐいと流し込んで長い溜息を吐き出した。 慣れない酒はすぐに回って、頬がジンと熱くなる。「急でいいんだよ。伸ばせば気持ちが鈍るから」「それってリーナのせいか?」「どうだろうな」 アッシュは戻したグラスに酒を注いで、今度は自分がゴクリと飲んだ。 艶やかに溶ける氷がカラリと音を立てる。「だったら他に理由があるのか?」「まぁね──言わないけど」「勿体ぶるなよ。あの男は何て言ってるんだ?」「ラルのこと? アイツは使命感が強すぎて、一人でも行く気だったみたいだぜ。けど、はいそうですかって送り出せるわけないだろ? 俺だってリーナの側近なんだ。ハロンを倒せなかった責任は俺たちがとろうって決めたんだよ」「別に……残ったっていいだろ。そんなことしなくたって、この世界は平和なままなんだろう?」「お前が俺を止めてくれるの? 嬉しいね、気持ちだけ貰っとくよ。リーナに言わないで行こうって言ったのはアイツなんだ。リーナを置いていけるのは、お前が居るからなんだからな?」「何を……今更」 「くそっ」と吐いて、ヒルスは奪ったグラスを握り締めた。「お前アイツのこと嫌いなんだろ? いなくなってせいせいするんじゃない?」「あぁ、そうだよ。嬉しいよ。僕はアイツを恨んでるからね。けど……リー
咲の『旗』という言葉に、三人は顔を見合わせた。「旗?」「ほら、よく昔の戦争とかで旗持って戦うのがあるだろ?」 智はクリームソーダのグラスに直接口を付けて、メロンソーダを飲んでいる。唇に付いたアイスをペロリと舐めて、「あぁ、あるね」と返事した。 芙美は最初、時代劇で見た合戦場のシーンを思い浮かべたが、別の旗が脳裏にチラついて、ハッと眉を顰める。咲が触発されただろうそれに、心当たりがあった。「咲ちゃん、それってもしかして、お兄ちゃんの部屋にある旗の事言ってる?」 お泊り会が終わってからまだ二日しか経っていないと思うと、確認するまでもない気がした。 咲も「そうだ」とあっさり認める。 お泊り会であの部屋に入った咲がどれだけ嫌な顔をするのかと思ったのに、大して驚きもしないどころか完全に蓮の世界観へ取り込まれてしまったようだ。 ヒルスは誰かに影響されやすい兄だっただろうか。あのおかっぱ髪も、リーナへの愛情も、誰に何を言われてもブレることはなかった筈だ。「リーナのアニキに何かあるの?」「うん。うちのお兄ちゃん、好きな小説に出てくる旗を部屋に飾ってて……」 言いながら恥ずかしくなって、声がどんどん小さくなる。けれど智は途端に「もしかして」と咲を振り向いた。「コーリア国騎兵団のやつ?」「えっ、智くん知ってるの?」「そこまで詳しくはないけど、人気作だから読んだことあるよ。隊ごとの旗が印象的でさ」「だったら話が早いな。僕はやっぱりあの主人公が一番好きなんだ」 途端に二人が意気投合して、本の話を始める。 芙美は横で黙っている湊にホッとして、ソフトクリームをスプーンですくった。「湊くんは、どう思う?」「別に旗作るのは問題ないけど、持って戦うのは現実的に考えて難しいんじゃないかな。邪魔でしょ?」「それは分かってるよ。だから、目印として使えればいいと思うんだ」 咲が割り込んで、話を先へ進めていく。「それで、デザインなんだけどさ」 咲は持ってきたスケッチブックの白紙のページをテーブルに広げた。「ターメイヤの国旗ってどんなのだったっけ? 僕たちの原点だし、一応参考にしようと思って」「ターメイヤの……国旗?」 芙美はスプーンを咥えたまま首を傾げる。言われるままに記憶を辿るが、全く思い出すことができない。「あれ? どんなだっけ?」「丸い感じじ
昼前に降り始めた雨に今日はデートだと芙美が心を躍らせていると、どこかへ行っていた咲が教室に戻ってきた。四時限目終わりのチャイムとともに飛び出していったのはトイレか購買かと思っていたが、そうではなかったらしい。「みんな帰り空けといて」「今日?」 芙美たちが弁当を食べていたテーブルに自分の椅子を引いてきて、咲がその計画を切り出した。「そうだ。教官の許可貰って来たから、放課後は部活行かないで田中商店に集合な」「そんな急に……」「だって雨降る予定じゃなかったし、芙美だって部活行く気だったろ? いい機会だと思ってさ」 部活に行く予定なんて、雨が降り出した瞬間に抹消していたけれど。デートへの期待を崩されて、芙美は思い切り顔をしかめて見せる。「ハロン戦に向けて、ちょっと提案があってさ」 だったら晴れの日にやればいいじゃないかと反論したかったが、男子二人が「そういうことなら」と納得してしまい、言い出すことができなくなってしまう。「そういうのもやらなきゃならない時期だよな」「教官が許可した事なら、行くっきゃないか」「そうだね……」 芙美の気持ちを汲み取って、湊が慰めるように笑顔をくれた。 ☆「ハロンが来るまでもう一ヶ月切ってるし、色々準備しとかないとね」 智が足元の大きな水溜まりを跨いだ。雨は昼より強くなっている。 放課後、「先に行ってて」と言う咲を置いて、芙美は湊や智と田中商店に向かった。折角の雨なのにと思うと、最近薄れていた憂鬱さもぶり返してしまう。 店の軒下で傘を畳むと、智が扉の前にぶら下がった看板を見つけて「貸し切りだ」と眉を上げた。 ハロン戦の話をするという事で、絢が図らってくれたのだろうか。けれど、中を覗き込んだ智が「ちょ」と声を詰まらせ、くるりとドアに背を向けた。「どうしたの? 智くん」「何か変なの見た」 困惑顔の智に、芙美は湊と顔を見合わせる。 また彼女のコスプレかと予想して、レースクイーンか、チアガールかと構えると、「何してるんだ?」 時間差で現れた咲が、背後から声を掛けて来た。 「それが」と説明しようとする芙美に首を傾げ、咲は智を追い越して店の戸を開く。 店の中に耳が見えた。 湊と智の背の隙間からぴょこんと三角耳が覗いて、芙美は顔をしかめる。 そうきたか──と猫耳キャラをあれこれと想像したが、実際は
休日の部活は昼前に終わった。 今日は午後から蓮と会う約束をしている。広井町まで一緒に行こうと誘ってくれた芙美を断ったのは、湊に遠慮したわけではなく、単に身体が砂まみれで汗だくだったからだ。こんな薄汚れた状態では、蓮に会うどころかあの人だらけの町に下りることなどできない。 電車一本分早く蓮に会えるのを我慢して、咲は一度帰宅した。 家で待ち構えた姉の凜が、頼んだわけでもないのにシャワー上がりの咲を捕まえて、自分好みのデートスタイルへ仕上げていく。咲はされるがままの状態で、優雅にオレンジジュースを飲んでいた。自分でやっても姉がしてくれるようにはならないし、凜も楽しんでやっているのだから利害は一致している。 今日のコーディネートはいつもより甘い感じだ。緩く巻いた髪に少しだけフリルの付いたスカートという見慣れない自分に困惑してしまう。「咲ちゃんはこういうのも似合うだろうって、私ずっと思ってたのよ」 凜は満足げに頷いて、仕上げに咲の唇へピンク色のリップを引いた。「ちょっと赤すぎるんじゃないか? 気合入れてるって思われちゃうよ」「このくらい、みんなしてるわよ。彼は喜んでくれるんじゃないかしら? できれば服に合わせて大人しくしてた方がいいんだけど……」「できるわけないだろ?」「言葉遣い!」 凜の注意に押し黙って、咲はその格好のまま電車に乗り込む。慣れない姿に周りの視線が気になって仕方なかったが、結果、毎度のことながら蓮の反応は良かった。「今日の咲もお姉さんのセレクト?」「あぁ。何かヒラヒラしてるし、服に合わせて黙ってろって言われたぞ」「別にいつも通りで十分だよ」 「可愛い」という彼の笑顔に照れながら、咲は手を引かれるまま歩いていく。 今日は久しぶりに、彼のおじさんのマンションへ行く。長期出張中で普段使われていない部屋は、蓮が自由に使える秘密の場所だ。 初めて彼と夜を過ごした時から、ここへ来るのは二度目だ。あの日のままの光景に記憶が蘇って緊張しながらソファへ座ると、蓮は突然おかしなことを言い出した。「今日はキスの日らしいよ」「えっ……そうなのか? 今日は十一月……」「まぁ、細かいことはいいから。だからさ、今日は咲が俺にキスしてくれる?」「はあっ? 何でそうなる?」 仰天して腰を浮かせる咲に、蓮は「そんなに驚く?」と笑った。「何でって、
薄暗いウォーインクローゼットに、青白い光がパッと広がる。並んだ洋服ラックの隅に小さい机があって、その上に置かれた直径20センチ程の円柱型の瓶が、中條の当てた懐中電灯の明かりに照らされた。 海底を思わせる液体の中でプクプクと泡を立てる黒い塊に、絢は「ちょっと」と眉をしかめる。「何で今まで言わなかったのよ」「勿体ぶって見せなかったんですよ」 中條はニコリと笑って、切り揃えられた髪をかきあげた。「そういうのを趣味悪いって言うのよ。他の部分はどうしたの? これだけじゃないでしょ?」「残りはキッチンで焼いて、ゴミと一緒に出しました」「はぁ? 焼いたって。まさか貴方、アレを食べたんじゃないでしょうね?」 光は液体を抜けて、背後の壁に青い波を漂わせる。 黒い塊は、拳程度の大きさだ。ゴツゴツといびつな形をして瓶の底に張り付いている様子を見ると、思ったより質量があるらしい。「そんな趣味はないですよ。匂いもおかしかったですからね」 中條はライトを消すと、「さあ」と絢の背中に手を置いて部屋の外へと促した。 リビングの蛍光灯に目を細め、絢は背後の瓶を振り返る。何度もこの部屋に来ているのに、今までその存在を疑ったことすらなかった。「回収してたのは知ってるけど、まさか飼ってるとは思わなかったわ」「研究熱心だと言って欲しいですね」「まぁ、そのお陰で事態を確証できたんだものね」 絢はリビングのソファに座って、乱れたスカートの裾を直した。 今日のスカートはやたらと足にまとわりつく。着替えてこようかと思ったが、彼が開口一番に「素敵ですね」と言ったので、絢はそれだけで満足していた。 注がれたワイングラスを鳴らして、絢は最初の一杯目を一気に飲み干す。そういう気分だったという訳ではなく、いつもの事だ。「ワインはもっと大人しく飲むものだと思いますが」 今更ながらに注意する中條に、絢はしかめ面を向けた。「貴方、何年私と一緒に居るのよ。そんなルール関係ないわ」「ルールではないんですけどね。嗜んでみてはどうかってことですよ」 二杯目に注がれたワインを口に含んで、再びウォークインを一瞥する。あそこで瓶詰にされていたのは、つい先日倒したばかりの黒いハロンだ。あれは湊の折れた剣で止めを刺したと認識していたし、中條の持ち帰ったものはただの抜け殻の筈だった。 なのにその殻に
過去の記憶を夢に見るのは久しぶりだ。 咲がまだヒルスで、兵士として城に勤めていた頃──あれは確かターメイヤにハロンがやって来る一年ほど前だったと思う。戦後の穏やかな平和を噛み締めながら、ヒルスは日々の訓練に明け暮れていた。 そんなある日、城の一階にあるリーナの私室を尋ねた時の事だ。「リーナ」 部屋の前に来たところで、中からアッシュの声がした。 側近である彼がそこにいるのは何ら不思議な事ではないが、いつになく甘い雰囲気を感じ取って、ヒルスはそっと中を覗き込む。予感というのは当たるもので、中庭へと繋がる外扉の向こうに背の高い金髪のアッシュと華奢なリーナの頭が並んでいた。「何回も言うけどさ、俺リーナの事好きだよ。今度二人きりでどっか行かない?」 晴れ渡った昼下がり、アッシュは絶賛リーナへ猛アタック中だ。 アッシュの告白など見飽きているし、もはやリーナも挨拶のように返事を返している。「ありがとう、アッシュ。私、アッシュの事は嫌いじゃないわ。けど、好きとかまだ良く分からなくて……」 彼の言葉を真に受けて『どうしよう』とヒルスに相談してきたのは、もう何か月も前の事だ。 そんなことを繰り返しながらも二人は仲良くしているようだが、主人と下僕という関係を無視して親友の妹に手を出そうとするアッシュが、ヒルスには気に食わなかった。 リーナの側に居たくて自分も試験を受けたけれど、受からなかったことをヒルスは根に持っている。魔法が使えないヒルスは剣で試験に挑んだが、圧倒的な実力の差にその願いが叶う事はなかったのだ。「リーナはお前にやらないって言っただろ?」 気持ちを抑えられなくなって、ヒルスは半開きの扉を乱暴に開けて中へと踏み込んだ。「よぅ、ヒルス」 アッシュが振り返ると、リーナも「兄様」とホッとした表情を見せた。 彼女の着る水色のヒラヒラしたワンピースは、ルーシャが仕立てさせたものだ。たまに際どいものを着ていて驚かされることもあったが、毎日そのまま帰宅して披露してくれるのをヒルスは楽しみにしていた。 ヒルスは顔の前に流れた髪をピシャリと後ろへ払うと、外へ繋がる出口の壁に拳を置いて二人に説教した。「リーナもリーナだ。気を持たせるようなこと言ったら、コイツがつけあがるだろう?」 「えぇ?」と困惑するリーナに、ヒルスは「男はそういうものなんだよ」と人差